ネットに転載されていた雑誌のエッセイで、フランス文学者、哲学者の内田樹さんが、「桜を見る会」について論評するに際し、「私自身いいかげんこの話題に飽きているが、官邸が「国民がこの話題に飽きて忘れること」を狙っている以上、その手に乗るわけにいかない。」(要約)と書いておられます。

 内田先生の言われることには賛成できないこともありますが、これについては全面的に賛同します。各マスコミ、ジャーナリストの皆さまも、先生の気骨を見習っていただきたいと思います。私も先生に倣い、頑張ってこの話題を繰り返し取り上げます。

 

法令等の勝手な解釈運用

 「桜を見る会」に反社会的勢力とみられる男性が出席していた件に関する野党の質問に対して、「(反社会的勢力について)あらかじめ限定的かつ統一的に定義することは困難」とする答弁書を閣議決定しました。これまで、さんざん暴力団等を取り締まり、排除してきながら、自らが矢面に立つと突然こんなことを言い出しました。今まであいまいな基準に基づいて排除してきたのかということになり、法治国家にあるまじき話です。

 バックアップデータは行政文書ではないなどという珍解釈には、専門家も行政の実務者もあきれています。何のためのバックアップなのでしょうか?

 災害時の応急事業などを除き、事業は歳出予算の範囲内で執行するものです。しかし、「桜を見る会」の事業については、安倍官邸は当初から予算の枠を守ろうとする気もなく、際限もなく客を招待し、予算を大幅に超えて事業が行われました。国の予算は自分の財布と考えているようです。

 集団的自衛権の行使は日本国憲法の下では認められないというのが大多数の憲法学者の解釈、通説であり、従来の自民党政権の考えでもあったのですが、突然変更してしまいました。

 

朕は国家なり

 数十年前(私の高校時代)、テレビニュースで国会中継を見ていたら、野党議員が当時の田中角栄首相に対して、「総理は、『私は法律だ。どんな法律でも作ってみせる。』と言ったそうだが、本当か?」というような質問をしたのに対し、田中氏は、だみ声で「私が『私は法律だ。』などと言う格調の高い人間に見えますか?」などと答弁し、議場が笑いに包まれていたことを思い出しました。一緒にテレビを見ていた今は亡き父も笑っていました。

 安倍政権は、自分たちの都合に合わせて、法令の解釈、制度の運用をころころ変えてしまいます。その対応は、まさに、自分の考えが法律であり制度である「朕は国家なり」という絶対君主制時代のルイ14世の言葉のようです。

 

 ここらで歯止めをかけなければ、ひどい国になってしまいそうです。

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