地方自治日記

地方自治に誠実に取り組んできた県職員OBです。県の市町村課に長く在職したほか、出納局、人事委員会などのいわゆる総務畑が長く、自治制度等を専門分野としてきました。県を退職後も、時々、市町村職員などの研修で、自治制度、公務員制度、文書事務などの講義もしていました。 単に前年どおりに仕事をすることが嫌いで、様々な改革・改善に取り組んできました。各自治体の公務員の皆様には、ぜひ法令を正しく合理的に解釈し、可能な限り効率的、効果的な行政運営をしていただきたいと願っています。

2018年08月

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 平成30810日、人事院が、国家公務員の定年を段階的に65歳に引き上げることについて、衆参両院の議長や内閣総理大臣に意見を申し出ました。我が自治体にも県の市町村課経由で流れてきました。

定年引上げ自体は、既に昨年6月に「具体的な検討を進める」旨の閣議決定がされており、既定事項ですが、今回の人事院の意見により、制度の大枠が固まったようです。近々、この意見に沿った法改正が行われるでしょう。

 

意見の骨子

1 国家公務員の定年を段階的に65歳まで引き上げ

2 本庁や地方支分部局の課長相当職以上の管理職に、原則60歳(60歳到達時の年度末)の役職定年

3 役職定年の対象外の職に就いている職員は、60歳到達時と同じ職にとどまることもあり得るが、その場合も給料は60歳到達時の70%の水準(役職定年の対象者の場合は年間給与が5~6割程度になることもある。)

4 60歳以上で希望する職員は、短時間勤務の職

5 現行の再任用制度は、定年引上げが65歳に達して完了するまで、暫定的に継続

6 引上げの年度にも計画的に最低限の新規採用の確保

 

予想されたとおりの内容だが

 おおむね予想されたとおりの内容です。役職定年制等を導入すれば、事実上は現行の再任用制度と大差はありません。

 しかし、気になるのは、同一の職にとどまる場合でも給与水準を70%に切り下げることです。同一労働同一賃金の原則憲法上の法の下の平等に反しないのでしょうか?

 先の最高裁判決で、定年後の再雇用について、定年前の79%程度の給与とすることを容認していますが、今回の意見の70%という水準はそれを下回っています。また、定年退職という形を経ずに身分が継続しています。

 これが、合法、合憲なのか、私には疑問があります。

 「非正規職員の処遇等 最高裁の判断」

 

 今後、国会で議論され、成立後、地方議会でも形だけ議論されて地方公務員にも波及してくるでしょうが、どんな議論になるのか、注目しています。


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 全国的に有名な徳島市の夏の風物詩「阿波踊り」ですが、市が中心となって新たに組織した実行委員会と有力な踊り手グループ(連)が所属する踊り手団体「阿波おどり振興協会」が対立し、混乱しました。実行委員会が収益増のために「総踊り」を止めて四つの有料演舞場に分散することをもくろんだのに対し、踊り手団体が反発し、実行委員会の反対を押し切り、恒例の「総踊り」を強行開催しました。

巨額の累積赤字の発覚で市が改革に乗り出したわけですが、踊り手団体との対立を招いたうえ、今年度の来客も例年に比べて大幅に減少させたようです。

 

踊りの主体は誰か

 阿波踊りの主人公は、踊り手たちです。もともと、観光イベントではなく、自分たちの楽しみのためにやっているものです。ライバルのグループ(連)の踊りも見たいでしょう。それなのに、踊り手グループの意向を無視して、その楽しみの最大の山場を勝手に中止、分散するなど、そんな意思決定は考えられません。

 赤字を出したくないなら、踊り手たちの楽しみを阻害せず、納得してもらえる方策を探さなければなりません。

 踊り手たちの意向が反映されていない誤った意思決定が、どういう過程で行われたか、「失敗学」の見地から興味があります。詳報を期待しています。

 

盛り上がりの分散は愚策

 観光イベントとしてみた場合でも、見物客にとっての最大の魅力、山場は、総踊りでしょう。圧倒的な迫力、盛り上がりを体感したいために訪れる観光客も多いと思います。その目玉を分散してしまえば、迫力も減ってしまい、魅力の乏しいものになってしまいます。見に行こうという人も減ってしまうでしょう。

 今回、踊り手たちの協力が得られていたと仮定しても、収益増が図られていたか疑問です。最初の年だけは収益が増えたとしても、魅力、迫力の減ったイベントに、将来にわたって客が来てくれるとは思えません。

 

地元マスコミのチェック機能

 一般に、このような事態になる前にストップがかかるものですが、今回は、地元の徳島新聞が昨年までの累積赤字にかなりの責任があり、また、市長は系列のテレビ局の出身でもあるため、筆が鈍っていたのではないかと思います。地元マスコミの沈黙が、市の暴走を許した可能性があるのでしょう。

 たしかに、徳島新聞は、今回の市の改善策を批判できる立場になかったことは理解できるのですが、他のマスコミは市の暴走を止められなかったのでしょうか?

 

 来年は、今回の反省の下に、市民と行政が一体となって総踊りを盛り上げていただきたいものです。


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 本書は、賛否が激しく対立する本です。特に、薩長土肥と水戸の出身者には、受け入れがたく感じる人が多いだろうと思います。私は、大河ドラマの幕末、維新ものを見たり、その時代をテーマにした小説などを読んだりした際に漠然と疑問に感じていたことが、やはりそうだったのかと、かなり納得する部分がありました。

 

日本の近代化に明治維新は必須だったか?

 私たちが受けた歴史教育は勝利者側が作り上げた「官軍教育」ですが、それによると、日本の近代化は明治維新のおかげということになっています。しかし、少し考えれば分かるとおり、既に幕府が開国していたのです。各国と和親条約を結ぶ以前にも、1842年には薪水給与令を発して異国船に対する飲料水の補給を認め、交易船の来航も複数回ありました。

 開国していた以上、戊辰戦争などしなくても、近代化は進んでいたはずです。現に、幕府は、天文方、蕃書調所、講武所、種痘館、海軍伝習所などで西洋技術の研究や習得に努め、ここで育成された元幕僚が、無能な藩閥官僚を陰で支えて明治政府でも大きな役割を果たします。

 

尊王攘夷とは何だったのか?

 攘夷などできるはずがないことは、状況を理解している人には分かっていたはずです。したがって、尊王攘夷を叫んだ志士のほとんどは、状況を理解していないか、ナショナリズムに浮かされた考えの浅い人たちです。一部、承知のうえで、倒幕のためにそのスローガンを利用した勢力がいたのでしょう。政権を奪ったとたんに、卑屈なほど西洋化に走っています。

 尊王という点で見ても、例えば、会津藩には天皇に背いたりした事実はありません。孝明天皇が最も信頼していたのが会津藩であったことは、よく知られています。むしろ、長州藩は、蛤御門の変で御所に向かって発砲するなど、天皇を軽視していました。

 その後も、薩長側が、偽勅を出したり錦旗を偽造したり、不敬な行動が目立ちます。

 やはり、天皇の権威や人々のナショナリズムを利用するための単なるスローガンだったのでしょう。

 

 明治維新150として全国各地で様々な催しが行われていますが、これを機に、本当にあれが偉業だったのか、検証すべきだと思います。会津、二本松、庄内、長岡藩などには、朝敵、賊軍の汚名を着せられるいわれはないようで、義憤を感じます。


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 東京医科大学が女子受験生などに対して不公正な減点などをしていたことが非難されています。

 この点数操作について、多くの女性医師が「やむを得ないこと」などと理解を示していますが、私も、現在の社会状況から一定割合の男性医師を確保しなければならない事情は理解できます。しかし、それならば、男女別の定員を設けるなど、公明正大に行うべきで、こっそりと点数を操作するなどは言語道断です。断じて容認できる話ではありません。

 しかし、地方公共団体の採用試験で、似たようなことが行われていないか、心配な部分もあります。

 

地方公共団体の採用試験

 ほとんどの地方公共団体では、職員の採用に当たり、まず筆記による一次試験を行います。その際に、性格診断などの検査も行う団体が多いようです。

 その一次試験の通過者に、面接を中心とした2次試験を行い、小論文や性格診断などの結果と合わせて、採用者を決めるのが一般的です。一次試験の結果は足切りに使われますが、二次試験の合否の判定では一次試験の成績は重視されず、面接などが重視されることが多いと思います。

 今回の東京医科大学がやったように、一次の筆記試験の点数を操作するなどは、地方公共団体はやっていないでしょう。しかし、最終合格者を決める際、採用者の男女比が気になることと思います。採用者が男性ばかりになることも、女性ばかりになることも、採用側としては避けたいところでしょう。

 最終合格者を決める際、採用者の男女比を偏らせないため、意識的か無意識でかは分かりませんが、面接試験の結果が調整されているかもしれません。

 

民間企業も同様

 男女雇用機会均等法により、採用差別が禁止されましたが、民間企業でも総合職、一般職別に男女の採用枠を設けているらしいことは、時々噂にのぼります。出身大学別の枠まであるなどという話もあります。

 

 警察官などは、男性警察官と女性警察官は別枠で採用されます。このことは、合理的な区別として社会に認識されているのでしょう。

東京医科大学を非難することだけで終わらず、合理的なものとして許容される男女の区別はどこまでなのか、詳細で明確で現実的な指針が欲しいものです。

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 関係のないことを二つ並べた連想ゲーム、またはこじつけのような表題ですが、昨今のボクシング連盟の騒動をテレビで観ながら、やはり原発は一日も早く廃止しなければならないと思いました。

 

副会長兼専務理事は常識人のようだ

 日本ボクシング連盟副会長兼専務理事の吉森照夫氏をテレビで頻繁に拝見しますが、極めて常識的な人物のようです。受け答えも論理的です。一度しつこい質問に感情的になりそうな場面もありましたが、その後の対応も一応は理性的でした。それもそのはずで、東大ボクシング部主将も務めた弁護士とのことです。

 他の理事の中にも変な人はいるようですが、吉森氏のような常識人も多いことと思います。なぜ、吉森氏のような人たちが、山根会長のような危ない人間を会長に担いでいたのか不思議ですが、理由は二つ想像できます。

 一つは、組織論でいう「厄介者の権力」で、敵対すると面倒くさいので持ち上げていたという面は、きっとあるでしょう。

 ボクシング連盟の騒動 「厄介者の権力」」

 

 もう一つは、あの会長に利用価値があったからだと思います。

 あのこわもてで、国際連盟やJOCの中で日本ボクシング連盟の発言力を高めるには役に立ったのかもしれません。俗に、馬鹿と鋏は使いようといいますが、常識人ならできないような強引なやりかたで、日本ボクシング連盟の言い分を通してしまうような使い途があったのではないかと想像します。

 

完全に制御できるものではない

 制御できているうちは便利で効果的な道具でも、そもそもが危険なものならば、ひとたび事故が起きて制御不能になった時は破滅的な事態になります。

 常識人である理事たちは、あの会長が危険な厄介者であることを知らなかったはずはないと思います。制御しながら、便利に使おうと考えていたのかもしれませんが、あんな人物を完全に制御することなどできるはずがないのです。いつか破綻することは、必然でした。あんな危険なものを使うべきではなかったと思います。

 原発も、地震などの災害、テロ、航空機事故などに際しても完全に制御できるはずがないのです。ひとたび事故を起こした時には取り返しがつかない大惨事になるような道具は、どんなに便利でも使ってはいけません。

 

 ボクシング連盟の副会長の、会長とは落差のある常識的な受け答えをテレビで拝見しながら、そんなことを感じました。


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