本書は、新聞の広告欄に頻繁に掲載されています。
著者は浄土真宗親鸞会という宗教法人を立ち上げていますが、本願寺などとの関係は険悪なようです。読み終えてからネットで検索して知りました。本願寺派の末寺に生まれましたが、後にその僧籍を離脱しています。したがって、お寺の住職などではなく、宗教思想家といった位置づけでしょうか?
カルトだと主張する人もいて、被害者の会まであるようです。
私は仏教、特に親鸞の思想に興味があり、本書を手に取りました。一部の解釈に疑問はあるものの、本書はまっとうな本だと思います。
本書の概要
ハードカバーで350頁もありますが、行間が広く、字も大きく、書家による歎異抄の筆書きまでついているので、読むのにそれほど時間がかかりません。
三部構成で、第一部には歎異抄の意訳と原文の対照です。第二部は、主要な箇所、誤解しやすい箇所の解説、第三部は再び歎異抄の原文が通しで掲載されています。
歎異抄を一応一通り読んだことのある人なら、第二部だけ読んでもいいでしょう。
印象に残った個所
歎異抄の第5章に「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず」という文言があります。この解説で、釈迦のエピソードが紹介されています。
弟子が釈迦に「死人の周りでありがたい経文を唱えると、善いところへ生まれ変わるというのは本当か」と尋ねました。釈迦は、黙って小石を近くの池に投げ込み、沈んでいった石を指さして、「池の周りを、石よ浮かび上がれ、浮かび上がれと唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか」と反問したとのこと。つまり、人は自身の行為で死後の報いが定まるのだから、他人がどんな経文を読もうと死人の果報が変わるわけがないと説かれたということです。
葬式や年忌法要などの儀式が、死者を幸福にするという考えは、仏教の多くの宗派で流布されていますが、営業のための「方便」なのでしょうか?
初期の浄土真宗の教団では、覚如上人((親鸞聖人の曽孫)が親鸞の教えに背いて追善供養を推奨した我が子存覚を勘当しているとのことです。
著者は毀誉褒貶のある人のようですが、本書は参考になりました。
にほんブログ村 ご覧いただきありがとうございます。