本書は、ほとんどの人が読んだことがあるでしょうが、全体を読んでいる人は多くないと思います。無人島に漂着してから、そこを脱出して故国に帰るまでの前半部分は、子供向けのものでも何種類も出版されています。私も、子供のころ、何度も繰り返して読みました。

 後半(第二部)は、再び冒険の旅に出て、長年過ごした島へ行って、島に残された人々のその後の生活の様子を確認し、必要な援助をして、その後、アジア大陸を横断して帰る物語です。

 私が読み返したかったのは特に後半部分でした。図書館で探したところ、わざわざ「完訳」と銘打っていながら前半部分しか収録されていない本もあります。私が今回読み返したのは、岩波文庫の上下巻です。これはちゃんと、全体が収録されています。

 

 私が今回これを読み返そうと思ったのは、キリスト教に関する記載を再確認しようと思ったからです。ニーチェの「アンチクリスト」(キリスト教は邪教です)を読んだことがきっかけです。

 後半では、主人公が、アジアで、韃靼人が信仰の対象にしている偶像を侮辱して、火を着けて破壊します。それが、未開の邪教徒を啓蒙する美談として書かれており、キリスト教の傲慢さに腹立たしい思いをしました。それ以来、デフォーを読まなかったのですが、今回、45年ぶりくらいに読み返しました。

 

 読み返してみると、偶像破壊以外にも、宗教的な部分がたくさんありました。前半部分から、いろいろなきっかけで神の摂理を感じたり、また忘れて運命を呪ったりし、また反省する場面もあります。従者になったフライデーなどの「蛮人」をキリスト教に改宗させるために問答する描写もあります。

 

 著者は、何の説明もなく、証明もしないまま、「理性的な人間ならば、その本質からいって、神についての知識、また、神の最高の存在にたいして当然払うべき畏敬と崇敬の念についての知識を持つにいたるのは明らか」などと言っています。そのくせ、イエス・キリストや彼によって贖われた贖罪などの知識は、「天から与えられる啓示だけが、人間の魂の中にこれらの知識を育成することができる」などとも言っています。つまり、理屈で説明することはできないということなのでしょう。

 これでは、私のような者には、到底納得できません。ニーチェなら、欺瞞というでしょう。

 

 「ロビンソン・クルーソー」は、私のように信仰心など持っていない日本人には、子供向けの要約で、冒険や創意工夫、不屈の精神を学ぶ程度がちょうどいいようです。全体を真剣に読むと、腹が立ちます。

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