若いころこの著者の「戒厳令の夜」などを夢中で読みました。数年前には、小説「親鸞」を楽しみました。著者も、親鸞聖人の思想に深い関心をお持ちのようです。

 本書は、祥伝社新書で200ページほどの本です。この中に、「謎にみちた歎異抄」という題の、敗戦を朝鮮で迎えた著者の引き上げ体験などを踏まえて親鸞の思想を論じた部分が50ページ弱、「私訳 歎異抄」が80ページほど、歎異抄原文が40ページほど、川村湊氏との対談が25ページほどという構成です。

 著者は、歎異抄は謎にみちた本で読めば読むほど分からなくなる、もう読まないことにしようと思ったこともあると言っています。しかしまた繰り返して読んでしまう不思議な本だと言っています。

 著者は、「心やさしい人々は次々と倒れ死んでいき」「他人を押しのけてでも前へ出る、そんな強いエゴをもった人間が生き残って帰国できた」「人は心に深い闇をかかえて生きている」と実感しています。そして、「もろもろの生命を食物として摂取」しなければ生きていけない心の闇を深く見つめた親鸞に共感しておられるようです。平和な時代に生まれ、暮らしてきた私には深くは実感できないと思いますが、そんな私でも自分の心の闇は自覚しています。

 「私訳」も他の現代語訳と比較して分かりやすいと思います。

 歎異抄第18章には、阿弥陀仏などの仏にはそもそも大きさ、長短、形、色もなく、方便として形を与えられているというようなことが書かれています。現代人の私が読めば当然のことですが、昔の人が読めば「えっ!」と驚くようなことかもしれません。唯円であろうと推測されている著者の後書きも、編集した蓮如上人の後書きも、シロートには見せるなと書いてあるのは、その辺をシロートが理解することは困難と考えたのでしょう。
 歎異抄全体として、どこまでが親鸞聖人の真意で、どこからが人々に分かりやすく伝えるための方便なのか、私には分からない部分がたくさんあります。法事などで浄土真宗のお坊様と話す機会があったら、聞いてみたい気もしますが、うるさがられるでしょうか?

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